【ホグワーツレガシー】オデはホグワーツに還ってきた【レビュー】

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正直な話をさせてもらうとオデは当初『ホグワーツレガシー』を買おうとはまったく考えていなかった。少し待てばゼルダToKの発売が控えているし、それとは別に買いたいゲームはいくらでもある。そもそも長らくハリー・ポッターシリーズに触れていない。最後に見たのが金曜ロードショーが放送した「ファンタスティック・ビースト」で、CM前のテロップで敵の正体のネタバレをぶち込んできた。あれは最悪だった。

ただ……ふと気づくとウチのPS5ちゃんは原神でしか起動されていない。抽選で当たって飛び跳ねて喜んだあの美しき日が過ぎ去り、高級原神専用据え置きゲーム機と化しているのはあまりにもったいないんじゃないか? 白い体をさみしそうに縮めているPS5を見ていると久々にこのハードでゲームがしたいと思ったのだ。

そこで見つけたのが二週間後に発売されるというホグワーツレガシーだった。ちょうどいい、よし、これにしよう。こうやって人は気軽に坂から転がり落ちていく。

【注意!】

この記事で「魔法のよう」「魔法じみて」といった例えを使うのはあまりに陳腐すぎるので使うことが禁じられています。禁を破った執筆者は即刻アズカバン送りです!

目次

・まるで魔法にかかったようだった

ゲームを開始して30分で唐突に思い出した。オデは子供の頃は年がら年中風邪を引いていて、ずっと布団の上でハードカバーの本を読んでいたんだった。ゲームは目が悪くなるからと遠ざけられ、学校を病欠した日はテレビも禁止だったので読書しかやることはなかった。児童書に関しては欲しがれば買ってもらえたのでたくさんの本を読ませてもらった。ダレン・シャン、ネシャン・サーガ、デルトラ・クエスト、そしてハリー・ポッター。

ハリー・ポッターは読書しかすることのなかったオデにとって世界の3分の1くらいだった。大げさに言っているわけではない。何度も何度も読み返した。初めて読んだときはえらく時間がかかったのだが何度も読むうちに読み終えるまでの時間が短くなっていった。最初読んでいたときにはわからなかった比喩が三回目くらいでわかるようになった。キャラクターが口にする皮肉のおもしろみがわかるようになった。

賢者の石の劇場版がやるとなった際には大騒ぎだった。今では考えられないが劇場の座席チケットが取れないので家族三人で映画館の壁際に張り付くようにして遠くで光るスクリーンを眺めた。席と席の間の通路までビッシリと人が座っていて、壁際でさえも客がひしめいていた。鑑賞に堪えきれない幼児を母親が連れ出そうとするも後ろに大勢がいて困っているのが見えた。劇場グッズのテレフォンカードは人が多すぎて買えなかった。

あれから長い月日が経った。あの映画館が入っていたイオンは今や寂れて久しい。オデは案の定ゲームのしすぎて目が悪くなり、風邪を引かなくなった代わりに毛むくじゃらのイエティになった。活字は目が疲れるのでマンガしか読まない。今はなんか腹がかゆいので腹を搔いている。何十年も経てばそうなる。そうなるのだが、どうしてか枕の上にハードカバーの本を置いて、本に付いた紐のしおりを手でいじくっていた時のことを思い出した。ずっと忘れていたことだ。一体オデに何が起きているのか。

魔法……ではない。単純にこの世界の解像度が高いのだ。あまりにも映画の通りの魔法世界が広がっているので読んでいた当時の記憶がつられて頭のどこかから引っ張られてきているとしか思えない。これはオデの数十年にわたるゲーム人生の中でも初めての体験となる。子どもの頃の記憶がプレイとともに蘇ってくるのだ。

昔聴いてた音楽を聴くとその時にやってたゲームや、読んでいた本のことを思い出さない? ああいう感覚の、さらに拡大版みたいな感じなのだ。

かつて頭の中で思い描いた魔法の世界がここに広がっている。オデはホグワーツに還ってきたのだ。

あまりにもあのホグワーツすぎてビックリする。これはプレイした者にしかわからない感覚だろう。厳かさと神秘性がホグワーツを包んでいて、少し歩く度に新しい発見がある。ただの一マップ、一フィールドではなくここはホグワーツという膨大な歴史の塊なのだ。オデはプレイ開始してからかなり時間が経ったが、未だに歩いているとまるで得体のしれない巨大の生き物の体内をさ迷っているように感じる。

ファストトラベルなどの便利な移動手段はあるものの、ホグワーツ内部はグネグネと絡み合っていてマップ上ではとんでもなくわかりにくい。慣れないと目的地が上なのか、それとも下なのかということすらわからなくなる有り様だ。この不便さが本物のホグワーツの輪郭を生み出している。

ホグワーツはいつかオープンワールド・アクションRPGになるかも! という未来を見据えて生まれたわけではなく、純然たる魔法学校としてここに存在しているからこのグネグネは当然のグネグネなのだ。

歩いてみよう。絵画が動き、幽霊は追いかけ合いながら痴話げんかをしている。床を拭いている屋敷しもべ妖精。暗い回廊で生徒たちのささやき声が聞こえてくる。つまらない風景が広がることは一切ない! 全てがゾッとするほど精巧で美しい。あとね、ネコちゃんがたくさんいるよ!

ホグワーツという魅惑の舞台を狂気の域で造り込むこととオープンワールドの探索が合致しすぎていて、これでもかという没入感を生み出している。時間帯によって表情を変えるホグワーツの探索は我々に現実の時間感覚を忘れさせる。オデはホグワーツにいるとクエストが進まないのであえてホグワーツ外に出ていくことが多々ある。特に意味なく同じところをウロウロしちゃうんだ。

・キャラクターが生きている

ホグワーツレガシーでは四つの寮のうち好きな寮に入れる。オデはスリザリンにした。USJで買ったスリザリンのカーディガンを着古しているというのが主な理由だが、原作の展開も気がかりではあった。ホグワーツの学期末、最優秀寮を決める際にスリザリンは勝ち確のところからグリフィンドールに大逆転され、失意のズンドコに落とされている。子どもの頃に読んだときは「なんてスカッとする展開なんだ」と興奮したものだが、真面目にやってきたスリザリン生にとっては絶望的な体験だっただろう。

大人になってスリザリン視点から考えるとアレは可哀想だった。こうして魔法世界に関わる機会を得たからにはスリザリン生として貢献しよう、という気持ちがオデに寮を選ばせたと言ってもいいだろう。

(とはいえ児童書におけるわかりやすい逆転劇は物語のカタルシスのために必要だ。あの展開は小説として正しいと思うし、オデは支持している)

さて、念願のホグワーツに入ったものの主人公は五年生からの転入となるのでめちゃめちゃ浮いている。まさにポッと出のキャラクター。そしてホグワーツにすでに通っていたみんなの人間関係はばっちりと構築されているわけだ。主人公がクエストなどでキャラに話しかけると会話の中でまったく知らない別の生徒の名前が出てくる。誰なの? ……マジで誰!? と困惑することになる。だが! これで良い。これが良いのだ。

逆に初対面から「私の友達の〇〇はこういう生い立ちで、さらに〇〇の友達の△△はね……」なんて説明をしだしたらいきなりキャラクターからリアリティが失せてしまい、ただの説明NPCになり下がってしまうことだろう。「一人のキャラクターと相対したとき、主人公にとって知らないことの方が多くなければキャラクターとしての深みに欠ける」というのがオデの持論だ。まあ、今思いついたことだが。

もちろん主人公は周りに馴染めないまま卒業……なんてことはおそらくなく、クエストなどで少しずつ人間関係を構築していくことになる。というかまさにキャラ周りのサブクエストの名前が「人間関係」となっている。そのまんま。主人公は依頼などを通して他のキャラたちとコミュニケーションを取り、顔見知りからそれ以上の関係になっていく。

誰にどういう態度を取るのも主人公の選択次第だ。傷ついたキャラクターの心を汲んであげるもよし、しょうもない依頼をしてきた相手には金をせびるもよし。選択次第で次に会ったときのキャラクターの態度が変化するため、時にはにこやかに挨拶され、時には罵倒される。そうして人間関係が形作られていくのだ。

ここだけの話、過去の真実を解き明かすのが中心となるメインストーリーよりもサブクエストの方が面白いとオデは感じる。昔あったことより今の人間関係よね。だって曲りなりともホグワーツの転入生だからさ。楽しい学園生活を送りたいじゃないの。

冒険とスリルは確かに刺激的だが、その前にホグワーツ魔法魔術学校というでっけぇ舞台がある。ここに生きているキャラクターが魅力的だからこそ、真にこの生活を楽しめるのだ。

・広大な世界を冒険し、いけすかないやつは吹っ飛ばす

ゲームを始めたての頃はホグワーツの中で一生を過ごしてもおかしくないとすら思ったが、このゲームはオープンワールドなのでホグワーツ外にも世界が広がっている。季節ごとに趣を変える美しい魔法世界を自由に飛び回り、宝物を探し、依頼をこなし、時にはいけすかないやつとの魔法バトルも勃発する。

主人公の敵は様々だ。ゴブリンの首領の信奉者、闇の魔法使い、密猟者。色々な敵がいる中で共通している点として、どいつも最高にいけすかない連中であることを挙げられる。奴らは主人公に遭うと逐一、主人公がこれまで自分たちに行ってきた「悪行」を口々に叫んでくる。もはやオデ自身が「そんなことしたっけ?」というレベルのサブクエストの内容まであげつらえてくるので、とにかく徹底している。

愚かさ以外にかわいい点がまったくないのでこいつらは最高の敵だ。どいつもこいつもまったく憐れみを誘わないので非常に清々しくぶっ飛ばすことができる。ステルスで後ろから石化させたり、アクシオで引き寄せてから吹っ飛ばしたり……魔法コンボの餌食にしてもぜんぜん心が痛まないの。素晴らしい! ここに中途半端に立場ごとの正義みたいなものを持ち込まなかったのはオデのような良識のある魔法使いにとって大変助かる配慮だ。

戦闘システムは一瞬の駆け引きが光る、爽快感ある魔法バトルだ。一つ一つの魔法を覚えてコンボに組み込み、自分に合った戦闘スタイルを確立することができる。集団戦になるとターゲットの切り替えで忙しくなるものの工夫次第で様々な突破方法がある。オデはノーマルにしているが今のところ理不尽さは感じない。

正直に言うとここまで戦闘が面白いというのは嬉しい誤算だ。もうちょっとこう……決まった魔法を連発しているだけで勝ててしまうような内容かと想定していた。増えていく呪文をコンボに組み込み、状況に応じて戦っていく楽しさは世界観をまったく邪魔していない。強いて言うなら主人公がお咎めなしに闇の魔術を使えることくらいだが……まあ、ずっと使ってみたかった無邪気なファンへのサービスなんだと思うことにする。

・ホグワーツレガシーはでっかい

プレイをいったん中断すると思っている以上に興奮している自分に気づく。自分に冷や水を浴びせるようなのであまり思い出したくないことだが、ハードカバーで揃えたハリー・ポッターは18歳くらいのときに処分してしまっている。映画は二回くらい見返しているが、最後に見たのは10年近く前のことだ。ファンタビは金ローにネタバレされたのが爆クソムカついたから続編はなんとなく見てない。

子どもの頃のオデにとってハリー・ポッターは世界の3分の1くらいを占めていたが、残念ながら今はそうではない。覚えていることもあるが覚えていないことのほうが多い。ホグワーツレガシーの作中で出てきた魔法や場所が原作で出てきたのかも曖昧だ。それでもコントローラーを握って冒険しているときは本当にワクワクするのだ。

子どもの頃にあんなに愛していた本を処分したこと。忘れがたく思っていたハリー・ポッターの世界のことを忘れていることは確かに悲しいことだ。だが、そんなことでつまづくんじゃねぇ! と叱咤激励してくるようなパワーがこのゲームからは出力最大で放たれている。ここでオデがメソメソするのはホグワーツレガシーに対して礼を失する行為だ。なのでオデは何ら恥じることはなく堂々と肩で風切ってこの学校を歩くことにしている。

オデのような元々はファンだったけど今はいまいち覚えてない人でも爆発的に面白いので、映画をいっぺん見ただけの人やこれまで一切触れてこなかった人が遊んでも130%面白いと思う。ホグワーツ魔法魔術学校はでっけぇのだ。我々のような一生徒がどれだけ魔法世界に触れてきたか関係なく楽しませてくれる。だから安心してオデはホグワーツに還ってきた。確かにここはオデの母校だったのだ。

この作品のすべてを楽しんだ暁には久しぶりにハリー・ポッターの小説を読もうと思う。kindleで。

余談だがオデはシャープ先生を推している。スネイプ先生のようにベッタリとした黒髪を持ち、オシャレなヒゲの渋い先生だ。定期的に会いに行っている。良いところがあるんだよなー! でも書くとネタバレになっちゃうから胸の中で収めておく。

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